忘れることのない3月11日。
今日は、昼から山田町に行ってきました!
あの時、私は学校にいました。(県立宮古高等学校)
自宅のある山田町に行くことが出来たのは、3日後でした。
(学校にいた最後の生徒を送り届けるために)
海沿いの道は寸断されていたので、山側から回り込んで海岸線に出ました。
その時、最初に見た場所(海岸線)です。
当時は、写真の木の枝の上の方までゴミが引っかかっていました。
そこにあった大きい防潮堤は無残な姿を見せていました。
同僚がいる中、ただただ涙が流れたのを覚えています。
あの時と同じように、自宅へ向かいました。
自宅の庭から海を見た時、やはりこの世のものとは思えない光景でした。
連絡の取れなかった母親が自宅前の道路を横切ったのが見えた時、ホッとしたのを覚えたいます。
しかし、自宅まで走る間に目にした現実は、本当に絶望的でした。
母親が生きている事を喜ぶ気にならないほどでした。
ずっと、更地になっていた実家跡地です。
実家と家業の工場があった場所ですが、壁の向こうはすぐ海です。
この一帯は、ぎっしり民家が建ち並んでいたところです。
背中側が、山田町の繁華街で町役場がある方向です。
話せば話しきれない程の経験をしました。
・・・私の思い出は、全て無くなってしまいました。
当時の赴任校、宮古高等学校剣道部では・・・
平成22年度、高総体で女子団体と女子個人で2位でした。
団体でのインターハイを逃しましたが、平成23年度は!と意気込んでいました。
しかし、津波でそのメンバーの3人が家を失いました。
津波の数週間後、久しぶりに面談した部員達。
「もう、剣道なんてどうでもいいです。」
「生きるのが精一杯です。」
死んだ魚のような眼をしていました。
もちろん、私も同じだったと思います。
紆余曲折を経て、活動が再開したのは4月の半ばでした。
「稽古するって、こんなに気持ちいいんだ!」
と、感激しました。
平成23年の高総体は男女とも団体3位でしたが、男女キャプテンが家を失っている中での事でしたので、限界まで頑張ったと思います。
頑張れた理由は、たくさんありますが・・・その一つに、被災した生徒達を引き取っていただけたことです。
その時、家を失った剣道部員6名を下宿させてもらったのが、古舘将先生(花巻南)のご実家でした。
全国の先生方からたくさんの激励をいただきましたが、その中で私を奮い立たせた言葉があります。
それは、福岡県の筑紫台高等学校の金森先生に電話した時でした。
たった一言だけ。
「・・・生徒のために命をかけろ!」
むせび泣きながら、「ありがとうございます」と言ったあの光景は脳裏に焼き付いています。
それから、私は「命懸け」と表現をするようになりました。
その年(平成23年度)の、新人大会で女子が団体優勝を果たし、全国選抜に初出場となりました。
翌年(平成24年度)も高総体で女子団体・女子個人を優勝したのでした。
ちなみに、監督としてのインターハイ連続出場はその時からずっと続いています。
去年で8年連続(平成24年度から令和元年度)・・・譲れない理由はここにあります。
さて、命懸けで生徒の夢を実現させようと頑張っていますが、ずっと心に引っかかる部分があります。
それは・・・「こんな時に剣道なんかやってて良いのか?」
いわて国体の強化の最中もその気持ちは変わりませんでした。
現在も思っています。
それでも今、剣道に没頭しているのは・・・
「生徒に生かされている自分」
「剣道に生かされている自分」
が、いるからです。
金森先生の言葉、頑張る生徒達、剣道そのものから・・・「生かされている」ということを学ばせていただきました。
私が生徒に対して「そこまでやらなくても・・・」というくらいに真剣に向き合うのは、この経験が理由です。
今朝も、もちろん走りました!
結構な雨にずぶ濡れになりましたが、キッチリ走りました(笑)
時は過ぎていくものですが、その時を無駄にしていけない事を当時を振り返りながら強く感じました!
生徒達にもこの気持ちが伝わる事を願っています!
好きなように生きていられるのは・・・当たり前ではない!
啐啄!Smile!盛南!